FBのプロフ画像をトリコロールにするorしない論争について考えてみた
先日起きたパリのテロ以降、Facebookのプロフィール画像にトリコロールを透過させるオプションが設けられ、「友だち」が端からトリコロールに染まっていった方も多いのではないでしょうか。
ネット上では、
「テロで悲しんでいる人々はフランスだけではない」
「カジュアル過ぎる」
などという意見が出てきて、なんとなく気まずくなってトリコロールを解除した方もいるのでは。
実は私も、友人たちがトリコロールになっていくのを見て「なんじゃこりゃ」と、ある種の違和感を感じていたのですが、その後の論争を見ていて、逆に「トリコロール批判」をしている連中に違和感を感じるようになりました。
フランスだけじゃない批判に感じる「気持ち悪さ」
もちろん、テロや紛争で悲しんでいるのはフランスだけではないというのは事実として当たり前のこと。
でも、話がおかしく感じるのはいつの間にか「命の価値」に話の矛先が変わってしまっていることではないでしょうか。
「じゃあ、トルコはどうなんだ、シリアはどうなんだ、ロシアは」
というのは
「航空機事故で亡くなった人のことはたくさん報道するくせに、なぜ孤独死した老人のことを同じように報道しないんだ」
という屁理屈と同類のような気がするんです。
今回、パリが標的となったのはフランスのシリア空爆に対する報復だと言われていますが、先進国でここまで大規模なテロが起きたのは9.11の米国同時多発テロ以降初めてのことだという指摘もあります。
つまり、そのくらいセンセーショナルな事件であったわけで、そのインパクトはロシアの航空機爆破テロや連日のシリア空爆のよりも大きかったというのが事実ではないでしょうか。だからamazonがトップページのビジュアルを変えたり、アップルのロゴが喪に服したりした。そこで人一人の「命の価値」の話を持ち出す人がいるから話がよくわからない方向に発展してしまうのです。
カジュアルすぎる、けど、別にそれでいい
祈りを捧げるにしても、そもそも世界情勢や宗教を理解していない人間が突然フランスに加担するのはおかしい、という指摘もあります。
でも、Facebookのアイコンをトリコロールにする、それだけの行為をする前にそこまでの知識を得ていないといけないんでしょうか。
あと、こんな指摘をしている記事もありますが、
笑顔の顔写真の上に仏国旗を重ねるZuckerberg氏から、「誠実さ」を感じないのは私だけだろうか。文化の違いである、とは私は思わない。世界中で今回のテロの犠牲者を追悼する集会が開催されているが、その中でニヤニヤ笑いながら蝋燭を灯している人間は居ない。(引用:http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/)
・・・じゃあ、喪に服した「悲しい顔」にした状態で、トリコロールにすべきなんでしょうか。
なんというか、葬式にニヤニヤして来られたら「不謹慎なやつだ」と思いますが、たかがFacebookの、しかも一個人のプロフィール画像にそこまで求めなくてもいいじゃん、って思います。なんか、気持ち悪くないですか?こういう指摘・・・。
だいたいFacebook上でカジュアルもフォーマルもないでしょ、という。
そもそもカジュアルなサービスなんだから。
パリに行って、事件現現場に花束を捧げて祈りをするという行為を一番シンプルな形式にしたもの、それが「Facebookのプロフィール画像をトリコロールにする」くらいに思っておくのがいいのではと思います。・・・というか、そこまで深く考える必要もないか。
ただ、Facebookのプロフィール画像を皆で統一したデザインにする、ということに対して、私も当初なんとも言えない違和感を感じていたのは事実で、同じように感じていた人が多かったというのはある種の発見でした。